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冬乃はというと途端。またも押し黙ってしまった。
いつかどんなかたちであれ。沖田に出逢えた時に、少しでも興味をひけるようにと。そして、
万に一つでも、家長講座 何かがあった際に、沖田の盾と。なれるように。
始まりは、そんな想いからだったなんて、告白できるはずがない。
(あの頃は、)
一寸の疑いもなく。沖田にいつか逢えると信じていた。そんな予感が、していたから。
やがて年を重ねるにつれ、叶うわけがないと諦めて、否、叶わないことが当たり前の常識のなかで、
こうして本当に逢えてしまった以上。あの頃の冬乃は決して間違ってはいなかったのだと。
冬乃にはそれが不思議な感慨を伴い、ずっと諦めていた悲しみや痛みに重ねて胸奥を切なくさせる。
まだほんの少女だったあの頃、何にも穢れることのない真っ直ぐな心が、
その後に大人になるにつれ現実を知った心よりも、ずっと真実をみていたことに。今だからこそ、冬乃は驚いてしまう。
「・・・信じていたんです」
本当に、逢えるなんて。
本当に。もう信じてなかった。
諦めていた頃の自分に教えてやりたい。
「いつか、来るべき時が来て。その運命を迎える時が来ると」
そのさだめのなかで。
貴方のそばで。
「身につけた剣が、役に立つ時がくると」
「そうですか」
冬乃の、その答えに。沖田が興味深そうに頷いた。
「私も似たようなものかな」
その穏やかな表情で、続けて呟くのを。冬乃は大きく瞬いて見上げて。
その先を言うでもなくただ微笑んだ沖田の、云わんとする想いを。冬乃は分かる気がした。
いつか近藤先生のお役に立てる時がくるように。そう信じて剣を志した、と。
いま確かに叶っている”その時”を、ここに。
「さてと。まだ朝は早い。もう少し寝てても大丈夫ですよ」
物音で起こしてしまったかな
と。
冬乃が寝衣に羽織っただけの状態なのを気にしてくれたのか、ふと沖田がそんな台詞を言って。
冬乃は目を瞬かせていた。
「そんな。沖田様が起きているのに、私だけまた寝るなんて」
それに、早朝から仕事をしてきたのでは、もう空腹なのではないだろうか。
「なにか急いでお作りします。何でしたらお口に合いますか」
だが冬乃の返しに、沖田のほうが驚いたようだった。
「貴女は私の小姓じゃないんですから。そんな気遣いは不要ですよ」
(あ・・)
「すみません、差し出がましいことを」
「いや、申し出は嬉しいですよ。ただ、」
沖田が笑う。
「貴女をそんなふうに独り占めしたら」
皆に、やっかまれるからね。
そんな戯れた台詞を置いてきた沖田に、冬乃のほうは息を呑んだ。
(私、わかりやす過ぎ・・だよね)
当然この先も、冬乃はこういう言動を無意識に繰り返しかねないのだ。
周りに、そしてなにより当の沖田本人に。冬乃の恋慕が伝わってしまうのは、これでは時間の問題なのではないか。
(恥ずかしい・・)
もはや、何て返せばいいのか。 「とりあえず茂吉さんが来る時刻まで、八木さん家に戻りましょうかね」
冬乃が頬の紅潮を隠すべく俯いたところに、だが、沖田のいつも通りに飄々として穏やかな声が降ってきた。
「はい」
としか、返しようがなく冬乃は、沖田の目を見れないまま頷き。
沖田が八木家のほうへと足を向ける気配に、後へと続いた。
「そうだ、昨夜遅く、所用で出かけていた永倉さんと島田さんが帰営しているんですよ。まだ会ったことありませんね?」
冬乃は、弾かれたように顔を上げていた。もっとも、今の冬乃の反応は、前を歩く沖田には見えていないが。
(永倉様と島田様・・!)
彼らが遺した記録は、新選組の史観を大きく前進させてくれた。いわば新選組史の大恩人のような二人である。
「後ほど朝餉の席で紹介します」
「はい・・!」
(ついにお逢いできるんだ・・)
心躍らせた冬乃の、その声音の変化に。少々不思議そうに沖田が振り返って冬乃を見た。
冬乃が、照れ笑いを返し。
(もう沖田様は密偵とは疑わずにいてくれてるはずだし、彼らを知ってること、言ってもいいよね)
「永倉様と島田様は、未来で有名な方々なんです。お逢いできることが嬉しくて」
・・・あとからおもえば。そんな、浅慮な台詞をこぼしていた。
「有名、ですか」
「はい。お二人、もとより ”新選組”は、未来で有名なんです」
「では、ひとつ聞かせてもらえますか」
沖田のその返しに、冬乃はなんでしょうと目を輝かせ、彼を見上げる。
「有名ということは、新選組は、・・近藤先生は、今後、本懐を遂げ、その過程で一翼を担う。ということですか」
「・・・」
本懐。
沖田の言っていることは、近藤がこのころ憂えていた攘夷の完遂だろうと。冬乃は、判って。
押し黙った。
攘夷とは、屈辱的 (とみなされていた) 開国を許さない姿勢であり。その姿勢の元に、論は分岐する。
開国はやむなし、然れども各国と対等な国交への道を切り開く。という、勝海舟や佐久間象山らが掲げた形の攘夷と。
ただひたすらに、皇国日本から夷狄を排除せよ、という純真されど盲目的な攘夷とに。
現時点では近藤がどちらの攘夷であったのか、後世に遺る近藤の書簡からみても想像に難くない。初期のほとんどの攘夷論者は後者であり、勝たちの攘夷論は、『異国かぶれからくる開国論』としかみなされないほど先進的すぎた。